2017  年 12 月号より
小学一年を修了した翌日、隣村(上分かみぶん
)に引っ越しをした。終戦の年の昭和二十年である。日常生活に必要な最小限の家財を馬車に積みこんで、私と妹のより子は馬車の最前列に座り、生まれたばかりの雪子はオモニ(母)に抱かれて、まるで遠足に出かけるような気分である。距離は時間にして一時間半。途中、国道からはずれて小さな谷川に沿って登ってゆく。テレビで観る秘境のような景色が続く。目的地「道の川」に着くとそから先は馬車は通れない。およそ二百メートルほどの急坂を歩いて登ると、十分ほどで一軒の農家にに着く。そこの倉が私たちの住居であるのだ。倉の中を片づけて十坪足らずの隙間にむしろを敷いただけの部屋。少年の目にはまるで秘密基地のような光景である(つづく)
2017  年 11 月号より
町の名は高知県須崎町。土佐湾の中心部に位置している。町の東部は造船所とセメント工場があり、一日二十四時間騒音でひっくりかえっている。西部は四国山脈へ抜ける国道が走っていて、町の入口にはうどん屋が二軒、荷馬車の馬蹄を取り替える鍛冶屋が二軒ある。町の中心部は赤とんぼの呼吸音が聞こえるような静かな住宅街である。そんな町の一角に中村屋という雑貨屋がある。店には私よりも三歳年上の道子という少女がいる。私を見かけると樽の陰にかくれて黙って笑いながら小石を投げてくる。道ちゃんは知的障害者である。夕方になると母と妹と三人で町の銭湯に出かける。中村屋の近くまでくると母親のねんねこの袖の中に頭を突っこんで足音を殺して通る。銭湯に着いて空を見上げると赤い月がランプのように輝いている。家のラジオは『米軍が高知市を爆撃、高知はほとんど全焼である』と報じている。「こどもたちの安全のために、もっと山奥に引っ越しをしようか──」と両親が小声で相談している。(つづく)
2017  年 10 月号より
私は四歳から八歳まで、高知県の“須崎”という港町で育った。蕪村の<月天心貧しき町を通りけり>という句がそのまま当てはまる墨絵のような町である。土佐湾に沿って国鉄の土讃線が走っている。線路を渡ると沖は太平洋の広大な海原がひらけている。夏の夕方、井戸水で行水して両親と妹と連れ立って砂浜に夕涼みに出かける。海からの風は寒いくらいである。母親の膝を枕にして満天の星空を見上げる。十時を過ぎるころになると二歳違いの妹が眠くなる。私は父に背負われ、妹は母に手を引かれて帰る。兄がおんぶされ、妹は歩いて帰るという光景は、日本人からみると奇妙かもしれないが、儒教の国朝鮮半島に生まれ育った両親にとってはあたりまえのことなのだ。昭和十六年十二月八日の開戦日まであと数ヶ月。わが家族が最も幸せだったころの思い出の一齣である。(つづく)
2017  年 08 月号より
小学五年生のとき、国語の教科書に「壁や天井のシミが絵画に見える人は、それだけで詩人である」という文章があった。その日の夜、布団の上に寝転んで壁を見まわした。そこはまさに百繚乱の世界であった。壁の周囲には山脈が連なり、その下には農村の風景がひろがっている。田んぼがあり、橋があり、民家が点々とある。ところどころには怪物のような怖い顔の巨人が大きな口を開けて見おろしている。芭蕉は「俳諧は三尺の童にさせよ」と言った。虚子は「写生」と言い、楸邨は「真実感合」と言った。いずれも言おうとすることは同じである。夏石番也氏より色紙が届いた。<未来より滝を吹き割る風来たる>という句が揮毫してある。「風」とは民衆のエネルギーなのか。ここには番也氏流の写生があり、真実感合がある。
2017  年 06 月号より
「峠」という漢字は単純明快である。山を上がり下がると書く。それにくらべ韓国は「峴(コゲ)」と書く。いちど故郷を出て肉親たちと別れたら二度と逢えないかもしれないという不安と悲しみで集落が見えなくなるまで見すえておこうという情念がこめられている。情念を「恨(ハン)」と言いかえてもいい。昭和二十年、戦争が終わってから村の峠を越えて毎日戦死者の遺骨が還ってきた。白い布につつまれた木箱を胸に抱いた妻を先頭に十人ぐらいの行列が連日峠を下りてくる。そんな光景を少年の私はぼんやり眺めていた。そのころ、私は高知県の一寒村に住んでいた。隣町へ行くには国道をバスに乗って三十分くらいの距離であったが、村人たちは片道二時間かけて峠を越えた。みんな貧しかった。私もなんどか峠を越えた記憶がある。少年雑誌を買うためには隣町まで行かねばならない。峠の反対側の村は外国のように新鮮であった。遠くに町並みが見え海が光っていた。あの小さな村からいったい何人の若者が戦場に狩り出され戦死したのだろうか。今ごろになってそんなことを考える。敗戦から七十年、私もすっかり年老いた。
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