2011  年 06 月号より
先月号の本誌に中村草田男の「楸邨氏への手紙」と楸邨の返事「俳句と人間に就て」が掲載されている。内容は太平洋戦争における戦争責任を問うものである。日本の敗戦によって自由にものが言える時代になった昭和21年は、文学、絵画、音楽などあらゆる分野において戦争責任の追求が行われた。それはまるで魔女狩りの様相を呈していた。当時、東京で暮らしていた画家藤田嗣治の自宅に或る日突然、親友の画家内田巌が訪ねて来た。喜んで招き入れた藤田に内田は「本日は日本美術協会の使者として来た。貴君は戦犯画家に指定された」と告げる。藤田は一瞬、驚いた表情をみせたが怒りもせず手料理で内田をもてなした。昭和24年、藤田はパリへ移住。二度と日本の土を踏むことはなかった。
2011  年 05 月号より
かねてから、俳句は短歌と比較して社会的事象を詠むことが不得手だと言われてきた。天安門事件、阪神大震災、9・11テロなどのような事件や天災が起こるたびに、短歌は感情のままに表現することに積極的であった。特に大新聞の俳句短歌の投書欄においてその傾向は顕著であった。そしてその都度「俳句はものを言わない文芸だから――」と俳人は釈明してきた。俳句はことばの余白に重心を置く。秘めることによって増幅する日本人独得の美意識をたいせつにしてきたのである。芭蕉もまた「謂応(いひおほ)せて何か有(ある)」と言っている。緊急企画『3・11大震災を詠む』を特集した。未曾有の災害を題材にして、俳句はどこまで切り込むことができたのか。忌憚のない読後感をお寄せ下さい。
2011  年 04 月号より
小学生時代の同窓会に出席してきた。同窓会というよりも老人会と呼ぶほうがふさわしい顔ぶれである。ことしから後期高齢者の仲間入りとなる。この後期高齢者という呼び方が嫌いだ。余命いくばくもありません、と宣告されたような気分になる。同様に身体障害者という呼び方も嫌いだ。「障害」を辞書でひくと「さまたげ。じゃま」とある。障害者とは社会の邪魔者だと言っているようなものだ。認知症、熱中症も変な日本語である。日本人はいつから言葉に対して無頓着になったのだろうか。人間性に欠ける言葉の氾濫が弱者切り捨ての無情社会をつくる。本年度から小学校で、来年度から中学校で俳句の授業が正式に始まるという。美しい日本語の創造と俳壇の将来のためにも朗報ではある。
2011  年 03 月号より
私の好きな小説家の一人に上林暁(1902~1980)がいる。尾崎一雄とならぶ私小説の第一人者である。上林は60歳のときに脳溢血で半身不随となったが妹・睦子の介護と口述筆記により78歳で世を去るまで小説を書きつづけた。死の4年前、74歳のおりに句集『木の葉髪』(永田書房)を刊行している。森澄雄が生前「上林暁の句集はぼくが編集したんだ」と話してくれたことがある。病床の上林を助けて澄雄が編纂を手伝ったのだろう。その澄雄は1995年、上林と同じ脳溢血で倒れたが長男潮氏の献身的な介護により車椅子で吟行をつづけ、昨年夏91歳で亡くなるまで俳句一筋の生涯を送った。両氏とも日本芸術院会員であった。〈文芸に一世(ひとよ)をかけし木の葉髪 上林暁〉
2011  年 02 月号より
少年期を過ごした高知県の幼友達から雉子肉が届いた。子供のころは、裏山で鳴く雉子の声をよく聞いたものである。ケンケンと甲高く鳴くのは雄の求愛の声である。山道で雉子の親子連れと出遇ったことも何度かある。そんなとき母鳥は決して逃げることはしない。数羽の雛をかばうように引きつれて茂みの奥へ消え去って行く。春の野焼のとき、燃え盛る炎の中から翔び立つ雉子を目撃したこともある。母鳥は雛を守って吾が身に火が燃え移る寸前まで逃げないのだ。それにひきかえ人間社会は親殺し子殺しや児童虐待のニュースが跡を絶たない。親子の情愛において人間は野鳥にも劣るのかと考えるとやるせない気分に駆られる。〈父母のしきりに恋ひし雉子の声 芭蕉〉。 
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