2011 年 08 月号より
東京神田の古書店や大阪の古書店組合から年2回「古書目録」を送ってくる。その目録から『小説芭蕉の臨終』(沼波瓊音著、大正二年刊)という本を見つけた。小説ということに興味をもって購入したが、ストーリーはまったくお粗末。芭蕉が病床に臥せてから死去するまでの数日間の弟子たちの看病ぶりを書いているだけ。小説と呼ぶにはドラマもフィクションも無い。ところで本号の特集は「芭蕉異説 アウトロー伝説を追う」である。この企画は編集部の提案。何か意味いわくありそうなタイトルだったので、OKを出したが果たしてどんな異説新説を展開できるか? 嵐山光三郎『悪党芭蕉』(新潮社)の二番煎じではつまらない。雑誌は企画が命。そして毎号が勝負。看板倒れにならないことを念じている。
2011 年 07 月号より
「天は二物を与えず」という。だが、高濱虚子は能楽においても天賦の才能を発揮した。虚子著『能楽遊歩』(昭和十七年刊)の序に「私は子供の時分から能楽が好きであった」と述べている通り、虚子は終生、能楽に親しんだ。「〈沈黙の文芸〉といふ言葉が私の心を強く牽きます。沈黙の力は偉大であります。俳句も沈黙の文芸であります。能楽も沈黙の文芸であります」虚子の思想の一端を表わす文である。話は異なるが、水原秋櫻子著『高濱虚子』(昭和二十七年刊)の最終章「別離」の中で、虚子から能楽会の稽古に誘われてしぶしぶ出席した秋櫻子だったが「予想どほりの苦しさで懲り懲りした」と愚痴をこぼしている。虚子から少しずつ離れていく秋櫻子の微妙な心の動きが読み取れておもしろい。
2011 年 06 月号より
先月号の本誌に中村草田男の「楸邨氏への手紙」と楸邨の返事「俳句と人間に就て」が掲載されている。内容は太平洋戦争における戦争責任を問うものである。日本の敗戦によって自由にものが言える時代になった昭和21年は、文学、絵画、音楽などあらゆる分野において戦争責任の追求が行われた。それはまるで魔女狩りの様相を呈していた。当時、東京で暮らしていた画家藤田嗣治の自宅に或る日突然、親友の画家内田巌が訪ねて来た。喜んで招き入れた藤田に内田は「本日は日本美術協会の使者として来た。貴君は戦犯画家に指定された」と告げる。藤田は一瞬、驚いた表情をみせたが怒りもせず手料理で内田をもてなした。昭和24年、藤田はパリへ移住。二度と日本の土を踏むことはなかった。
2011 年 05 月号より
かねてから、俳句は短歌と比較して社会的事象を詠むことが不得手だと言われてきた。天安門事件、阪神大震災、9・11テロなどのような事件や天災が起こるたびに、短歌は感情のままに表現することに積極的であった。特に大新聞の俳句短歌の投書欄においてその傾向は顕著であった。そしてその都度「俳句はものを言わない文芸だから――」と俳人は釈明してきた。俳句はことばの余白に重心を置く。秘めることによって増幅する日本人独得の美意識をたいせつにしてきたのである。芭蕉もまた「謂応(いひおほ)せて何か有(ある)」と言っている。緊急企画『3・11大震災を詠む』を特集した。未曾有の災害を題材にして、俳句はどこまで切り込むことができたのか。忌憚のない読後感をお寄せ下さい。
2011 年 04 月号より
小学生時代の同窓会に出席してきた。同窓会というよりも老人会と呼ぶほうがふさわしい顔ぶれである。ことしから後期高齢者の仲間入りとなる。この後期高齢者という呼び方が嫌いだ。余命いくばくもありません、と宣告されたような気分になる。同様に身体障害者という呼び方も嫌いだ。「障害」を辞書でひくと「さまたげ。じゃま」とある。障害者とは社会の邪魔者だと言っているようなものだ。認知症、熱中症も変な日本語である。日本人はいつから言葉に対して無頓着になったのだろうか。人間性に欠ける言葉の氾濫が弱者切り捨ての無情社会をつくる。本年度から小学校で、来年度から中学校で俳句の授業が正式に始まるという。美しい日本語の創造と俳壇の将来のためにも朗報ではある。
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